日本の風景文化と武蔵野
わが国は歴史的にも風景文化を世界に先駆けて創出した国であり、万葉集そして何よりも枕草子に於いて風景描写は確固としたスタイル、写生とも云うべき写実的描写 楽環
を世界で始めて獲得したと言っても過言ではなかろう。その伝統は千有余年の時を隔てて西洋自然主義の影響を受けながら、明治期に至って正岡子規の近代俳句やそし
て何よりも国木田独歩の「武蔵野」に於いて実を結び、近代的自我である「個」としての感受性に於いて把握され高められることにより確固とした現代性を獲得するに
至る。この国に於ける近代的意味に於ける風景の発見が独歩の「武蔵野」であったと云う事実は、この国の近代化が新首都「東京圏」から始まったと云う事実と無縁で
はなかろう。蓋し個としての自我の覚醒が一番早く進行したのもそこであったに違いないから。そして風景を廻る都市(東京)と農村(武蔵野)の文化的交叉関係、こ
の現代的とも云える課題を物の見事にその短編の中に描いて見せたのも彼であった。しかしその風景も大正ロマンが短命であったのと同様、やがて軍靴が奏でる集団主
義とこれまた集団思想主義を掲げるプロレタリア文学の台頭により、その居場所を失うのに永くはかからなかった。戦後敗戦とともに右から左に振れた世相はその傾向
をいっそう強めただけであり、それを嫌った表現主義も極度に技術論的技巧に身を持ち崩し、そこにあるのは、風景などは一発の核弾頭によって潰えてしまう程無力で
あてにならないものと云う嘲笑と現実逃避の無関心主義でしかなかった。ついに風景が風景として立ち現れるには東西冷戦構造の解消を待たねばならなかったのである
が、その時すでに武蔵野はその風景文化ともども遥か彼方へ後退してしまって居り、まずそれを取り戻すことから始めねばならなかった。断片と化した武蔵野の風景を
一片一片拾い集め、繋ぎ合わせつつ記録し、画布に再生する作業を本格的に初めたのは二千年紀の声を聞いた頃からである。それは又、都市と農村の心、文化を繋ぎあ
わせる作業でもあるが、この国が置かれている二千年紀の「今」そのものの課題の模索、展望でもある。