武蔵野との出会い


武蔵野の地に始めて接したのは、高校に入学する為に兵庫県の但馬の片田舎から
東京に出てきた昭和40年代前半のことで、故郷の但馬では野生のコウノトリの
姿が見られなくなり、円山川から鮎が一斉に姿を消し、薪や炭といった木質系
燃料から石油系の化石燃料への転換が一斉に進み、首都圏では高度成長の真っ只
中で、工業化に伴う公害は日常化し、謂わば社会が武蔵野的牧歌的風景を一斉に
脱ぎ捨てにかかった時代でした。
最初の1年間は杉並区に居ましたが、そこが武蔵野の一角であると云う認識を持ち
合わせていなかったどころか、当時は東京に慣れるのが精一杯で、それまで殆ど
目にすることの無かった赤や黄色と云った原色がやたら目障りで、とてもこんな
色彩環境には馴染めないと思ったものでした。既にその頃、武蔵野は東京の杉並
区あたりからは相当後退してしまっていたのでしょう。ただ、当時の記憶を辿る
ならば、晩秋から冬に見た夕暮れ時の空はそれまで見たことの無い深い藍色とス
カーレットの夕映えの空でした。次の年から、神奈川県の葉山・逗子方面に居を
移し、以降大学時代を含めて約10年間、そこから都心に通う日々が続きました。
横須賀線の窓越しに見える風景は、横浜を過ぎる辺りから当時は冬枯れの雑木林
が遠景に臨まれ、そこに赤々とした夕日が沈むのをじっと眺めていましたが、そ
の車窓風景と湘南の自然に、都会に慣れぬ私の精神はどれ程癒されたことでし
ょう。それはしかし、武蔵野の大地では無かったが、その隣にある風景でした。
武蔵野を身の周りに何となく感じ始めたのは大学のキャンパスの佇まいからだ
ったような気がします。銀杏並木の新鮮な芽吹き、或いは深まり行く秋の透明な
陽射しが葉の落ちやらぬ欅の梢を古めかしいレンガ造りの学び舎の壁面に投じ
るあの不思議な影絵。落葉した木立の樹梢に夕暮れ時の月が引掛りながらウル
トラマリン色に深々とと染まってゆく窓越しに見た室内風景画。当時武蔵野と
意識してこうした風景に接していたわけではありませんが、武蔵野は黙ってヒタ
ヒタと感受性の中に忍び込んで来ていたのかもしれません。木立のデッサンや
スケッチを始めたのはちょうどこの頃からでした。
妻の生育地である埼玉県の地に越してきたのはそれから更に10年くらいして
からのことで、「埼玉県には貴方が好きな木立や林がたくさん残っているわ。」
と聞かされ、又妻が幼少時代に体験した武蔵野の雑木林の話を聞き、胸を弾ませ
て妻の後に従ったものでした。しかしそこで見た雑木林は林床は荒れ果て、松喰
い虫におかされて、立枯れた赤松の赤茶けた葉が目に付くおよそ聴かされていた
ものとは程遠いものでした。妻もこんなはずでは無かったとがっかりしていまし
たが、実際その頃、武蔵野の風景は立枯れていたのです。
戦後と共に訪れた東西両陣営の厳しい対決は、核兵器と云う大量破壊兵器による
対峙をもたらし、武蔵野といわず、風景自体が久しくその身の置き場を失ってい
た時代でもありました。その四半世紀の間に武蔵野の風景は次々にその姿を消し
て逝きました。
それでも、冷戦構造が氷解する兆しが現れる頃になると、玉川上水や野火止用水
の水流復活と共に流域の雑木林が蘇ったと云う話題も聞かれるようになり、
保存緑地や景観林として保全されるものや、やがて「となりのトトロ」の大合唱
に見る里山ブームの到来と略時を同じくして、あちこちで雑木林の再生に関する
噂を耳にするようになりました。そして私が武蔵野らしい武蔵野に出会えたのは
ようやく2000年の声が聴える頃からの事であり、それは又武蔵野の風景の探し物
の始まりでもありました。

楽環

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